「おい、張本おれへんのか」“大阪で一番ケンカが強い”張本勲との決闘未遂…大阪のヤンチャな高校生がアントニオ猪木と同門レスラーになった日―2024上半期読まれた記事

2023ー24年の期間内(対象:2023年12月~2024年4月)まで、NumberWebで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。格闘技・ボクシング部門の第1位は、こちら!(初公開日 2023年12月30日/肩書などはすべて当時)。

昨秋に79歳で亡くなったアントニオ猪木。彼と同門レスラーだった「琴音竜」のインタビュー。20歳前後の猪木はどんな下積み生活をしていたのか?【全2回の前編/後編も公開中】

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 さほど語られないが、2023年は“日本プロレスの父”にして“戦後復興のシンボル”力道山が亡くなって60年という節目の年だった。

 2022年秋、アントニオ猪木が鬼籍に入って、力道山の直弟子で存命なのは、北沢幹之とグレート小鹿だけとなった。グレート小鹿に至っては、80歳を過ぎた今もリングに立っている。

 しかし、実際は直弟子はもう一人いる。プロレスラーではない。元プロボクサー「琴音竜」こと琴音隆裕(82歳)である。

「日本人でもジョー・ルイスやフロイド・パターソンのようなヘビー級ボクサーを世に送り出したい」という大願を抱いた力道山は、自らがオーナーとなり、毎日新聞運動部記者の伊集院浩を会長職に迎え『リキボクシングクラブ』を開設する。広く練習生を募集すると、大勢のボクサー志願者が集った。琴音はボクシング志願者ではなかったが、成り行き上、第1号ボクサーとなった。1962年にデビュー、東日本ミドル級新人王を獲得するなど、将来を嘱望されていた。

 しかし、プロ戦績わずか6戦でグローブを置くと、それ以降は実業家としての道を歩み、力道山門下生OBの重鎮、あるいは周旋役として、影響力を持ち続けた。

 その琴音隆裕の数奇な半生を振り返りつつ、2023年に60周忌、2024年には生誕100年を迎える師・力道山と、同門の兄弟弟子として共に汗を流し、友人として生涯付き合ったアントニオ猪木の想い出を聞いた。

「おい、張本はおれへんのか」

 琴音隆裕は1941年2月10日、宝塚市に生まれた。出生名は金子一雄。父親は建築業を営み、自宅の庭には、常時100人もの労務者が寝泊まりする飯場が建っていた。

「俺は今でいう在日韓国人で、一族は父親の代に朝鮮半島から渡ってきた。ただ、当時は日本統治下だから、父親は日本人として渡来してきただけ。ただ、その関係もあって、働いていた労務者の大半が朝鮮人で、父親は親方として彼らを雇って、寝泊まりさせていた。親父は金も持ってたから、女もたくさん作ってたね。ありゃ『血と骨』の世界だ。喧嘩も博打も日常茶飯事で、俺はそれを当たり前のように見ながら育った。だから、腕力に自信を持つようになったのも、自然なことだったんだ」

 大阪の天満高校(現・太成学院大学高校)に進学すると、一年生で番長を倒し「天満に金子あり」と呼ばれるようになる。しかし、この頃「大阪で一番喧嘩が強い」と呼ばれたのが、浪華商業高校(現・大阪体育大学浪商高校)の野球部で名を馳せていた同学年の張本勲(現・野球解説者)だった。梅田の駅前で浪商の生徒を見かけると「おい、張本はおれへんのか」「張本に伝えとけや、天満の金子が待ってるから」と片っ端から声をかけた。一対一の決闘をするためである。

「当時、張本は『大阪で一番強い』って噂されてて『じゃあ、どれくらい強いんだろう』って思ったんだ。興味もあったけど、俺としては『冗談じゃない』って気持ちもあってね。張本は同学年で、同じ在日。余計にライバル心があった。でも、結局、そのときに出会うことはなかった。出会うわけないよ。だって、放課後のその時間、あいつは野球部で忙しかったんだもん(笑)」

力道山「お前、やれるか?」「やります!」

 そんな琴音少年の憧れは、テレビで見るスーパースター・力道山だった。「同胞ということはとっくに知っていた」と言う。「張本が野球でスターになるなら、俺はプロレスで身を立てよう」と夢を抱くようになった。

 高校を卒業すると、琴音は力道山への弟子入りを決意。少年時代から顔見知りだった帝拳所属のプロボクサー・金田森男(のち日本ミドル級王者)に力道山への橋渡しを頼み、勇躍上京する。1961年、琴音隆裕20歳の春である。

「そのとき、神戸の三宮にあるお寺の坊さんに『力道山の弟子になるから、リングネームを付けて下さい』って頼んだんだ。俺は金子っていう苗字が何だか嫌で、それで命名してもらったのが『琴音竜』だった。いい名前だよ。それから40年経って、日本国籍を取得するとき、そのまま『琴音』を苗字にしたわけよ」

 上京した琴音は、金田森男に連れられ、渋谷大和田町(現・道玄坂1丁目)のリキスポーツパレスに出向く。リキパレスの2階に日本プロレスのオフィスがあり、地下に道場があった。この時点では、まだボクシングジムは始めておらず、琴音もプロレスラー志望として、憧れの力道山と初めて会った。

「金田森男がウチの師匠(力道山)と前から知り合いですんなり通された。入門テスト? ないない。師匠に『お前、やれるか?』って訊かれて『やります』って言っておしまい。そのまま、赤坂にあった合宿所に入れられた。そしたら、翌日からいきなり猛練習が始まったんだよ」

「スクワット2000回、腕立て伏せ2000回」からの…

 このとき、合宿所には大木金太郎、平井光明(ミツ・ヒライ)、猪木寛至(アントニオ猪木)、上田裕司(上田馬之助)、駒厚秀(マシオ駒)、北沢幹之(魁勝司)、林幸一(ミスター林)、星野建夫(星野勘太郎)といった面々が揃っていた。彼らは年齢もまちまちだが、琴音にとっては先輩となる。ちなみに、ジャイアント馬場はすでに海外武者修行に出かけて、道場にも合宿所にもいなかった。

「入門翌日、さっそく練習が始まった。部屋長の前座レスラー・桂浜(田中米太郎)の号令で20人がずらっと並んで、1人100回ずつヒンズースクワットをやるわけ。合計2000回だよな。次に腕立て伏せも同じ数をやる。気が遠くなるよ。そこから受け身を取ったりして、体力練習が一通り終わったら、最後はグランドレスリングの練習に入るわけ。『極めっこ』だよ。これがきついんだ」

「俺が入門した時点で、一番、極めっこが強かったのは、大木金太郎。これは間違いない。大木さんに敵う人は誰もいなかった。誰も歯が立たない。大木さんは韓国から密航してきた人だけど、すでに30歳を過ぎていて、身体が出来上がっていた。それに、休みの日も毎日欠かさず練習をしていた。それもあって、自然と番長みたいな風格があったな」

猪木と酒を飲む日々

 その大木金太郎と、合宿所において同室の後輩が、若き日のアントニオ猪木だった。「大木超え」を目指して頭角を現すようになる。

「そしたら、同じ部屋の後輩の猪木さんが、急成長をするわけよ。ある日、スパーリングをやったら、大木さんに極められなくなった。今までは大木さんに捻られていたのに、逆に猪木さんが捻り返すようになった。大木さんと猪木さんの2人は、同じ部屋で仲良しだったから、影響されたのかもしれない。猪木さんって、何でも影響されやすい人だからね(笑)。すると、今度は上田(馬之助)さんが頭角を現してきた。上田さんも極めっこの練習が大好き。それで、自然と『猪木と上田は強い』って感じになっていった。実際、2人は練習仲間だったな」

 年齢の近い猪木、上田、琴音は意気投合して、新宿の行きつけの店に行っては、毎晩のように酒を酌み交わした。この頃、琴音が交流を持った同門のレスラーたちの印象は、主に次の通りである。

「上田さんは人間がいい。すごく優しい人だよ。威張らないしね。あの人が悪役レスラーになって人気者になったときは驚いた。ああいう、ショー的なプロレスが出来る人だと思わなかったもん。隠れた才能があったんだろうな」

「北沢(幹之)さんもいい人。あの人は本当の意味で善人だよ。ただ、ああいう善人はプロレスみたいな欲得の世界には向かない。だって、エゴの強い連中が出世する世界だもの。あの人も極めっこは相当強いんだ。だから、みんなから一目置かれていたし、もっと大きい顔が出来たはずなのに、どういうわけか、それをしなかった。要は性格的にプロレスに向いてなかったんだな」

猪木さんは「嫌と言わない人」

「林(ミスター林)さんっていうのは、不思議な男でね。人はいいんだ。練習はサボるし、決して強くはなかったけど(笑)。でも、何だか手が合って一緒につるんでた。猪木、上田、林、琴音の4人組だよ。これがいつものメンバー。その後は馬場さんの全日本プロレスでレフェリーをしてたけど、人員整理で解雇されて、それから、実家に戻ったんだっけな。時々、ひょっこり顔を出したりしてたけど、病気になって早くに亡くなった。晩年は経済的に恵まれてなかった。レスラーってそういう人が多いんだよ」

「松岡巌鉄? 不思議なやつのことを知りたいんだな。松岡は後輩だよ。彼も相撲出身で、上田さんや林さんと同じ間垣部屋だった。ただ、人間があまりよくなかった。性格が、すれてたんだ。だから、つるむことはなかった。ただ、言うほど悪人でもないんだけどね。一時期、自分で再起を図ろうとしたみたいだけど、誰も助けなかった。俺のところにも来なかったし、その頃には上田さんとも切れてたのかな。やっぱり人柄なんだよ。今は生きてるのか死んでるのかわからない」

「そういう意味では、猪木さんっていうのは、いい人間だよ。性格もいいし、優しいし、気配りもあるし、嫌な仕事も率先して引き受ける純粋な人。あの人自身、何か頼まれても嫌とは言わない。それで、自分が責任を負ってしまう。逆に猪木さんが苦境に立ったら、誰かが助ける。猪木さんって人は『毒にも薬にもなる人』。だから、猪木さんの持つ毒を喰らってしまうと、その人自身が変になってしまう。それくらい、魅力があるってことだ。逆に馬場さんは『毒にも薬にもならない人』だな。わかりやすいだろう(笑)」

じつはプロレスに絶望していた

 日本プロレスに入門して半年が経った頃、琴音の心境にも変化が起きていた。あれほど、プロレスラーに憧れていたのに、その気持ちはとっくに失せていたのである。

「練習にも付いていけるようになって、俺もレスリングが強くなってきたわけだ。身体も出来てきたし『じゃあ、そろそろデビューを』という話になるんだけど、踏ん切りがつかなかった。何でかっていうと、道場でのレスリングは真剣勝負なのに、客前でやるのはショー。それが腑に落ちなかった」

「大木さんと猪木さんは、同室の仲良しなのに、いざ、リングの上では試合をする。猪木さんと上田さんなんて、道場で極めっこをやると決着がつかないのに、客前では勝ち負けを決めて試合をする。こんなの、本来は当たり前の話だけど、当時の俺は何も知らなかった。誰も教えてくれなかったけど、教わる前に自分で気付いてしまったんだな。だから、がっかりして『じゃあ、師匠もそうだったんだ』って絶望していたんだ」

「お前、ボクサーになれ」

 デビューを目前にしながら、プロレスへの情熱を失った琴音は、ある日、師匠の力道山に「話がある、社長室に来い」と声をかけられた。琴音が顔を見せると、力道山は開口一番こう告げた。

「ボクシングのジムをやることになったから、お前がその第1号になれ」

 プロレスラーとしての姿が想像出来なかった琴音は「渡りに船」とばかりに、プロボクサーへの転向を決めるのである。

「一応、体力練習は一緒にやるんだけど、ボクサーに転向してからは、極めっこはやらなくなった。当然だよ、必要ないもの(笑)。当時、師匠は『日本人初のヘビー級ボクサーを作る』って高らかに謳ってたから、俺も変わらずにチャンコをガツガツ食ってたの。そしたら、ある日『おい、ヘビー級だと試合が組めないから、お前は重量級のミドル級でいくぞ』って。早く言えよな(笑)。それで、体重は100kg近くあったのに、72.5kgまで落とした。これが本当に苦しくてな」

 いよいよ、琴音竜のデビューの日がやって来た。それは、あまり知られていないことだが、偶然にも、日本の格闘技史に残る日だったのである。

<続く>

―2024上半期格闘技・ボクシング部門BEST5

1位:「おい、張本おれへんのか」“大阪で一番ケンカが強い”張本勲との決闘未遂…大阪のヤンチャな高校生がアントニオ猪木と同門レスラーになった日

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2位:「ちゃんこの味で言い合いに」「おかみさんを突き飛ばして失踪」優勝せずに横綱昇進、24歳で廃業…“消えた天才”北尾光司の知られざる実像

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3位:八重樫東「やってやるよ、こいよ」両目がパンパンに…いま明かす“怖かった”あのロマゴン戦の心中「僕はヤンキーではないけど」「尚弥と似ていた」

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https://number.bunshun.jp/articles/-/861408

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