34年ぶりの東京ドームボクシング興行で、挑戦者ルイス・ネリを6回TKOで下した井上尚弥。これまでNumberWebで公開された井上尚弥の記事の中で、特に人気の高かった記事を再公開します。今回は、「井上尚弥に“最後に勝った日本人ボクサー”」です。《初公開:2023年12月24日/肩書などはすべて当時》
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<2010年11月21日。のちに“モンスター”と呼ばれるスーパー高校生・井上尚弥に日本人として最後に土をつけたのは、4歳年長の愚直で生真面目な大学生だった。林田太郎、34歳。井上だけでなく、井岡一翔、寺地拳四朗と3人の現世界王者に勝利した経験を持つアマチュアボクシング界のトップランナーが、プロに進まなかった理由とは。2023年度のミズノスポーツライター賞で最優秀賞に輝いた『怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ』(講談社)の著者が、「怪物に勝った男」の知られざるボクシング人生に迫った。(全3回の1回目/#2、#3へ)>
駒澤大学のボクシング練習場には多くの写真が飾られている。その1枚。試合用の赤いユニフォームに身を包んだ林田太郎が、相手選手に左のパンチを放っている。その選手の背中には「井上尚弥」とゼッケンがつけられていた。2010年11月21日、全日本選手権の決勝戦。林田が井上に勝った試合のワンシーンだ。
井上に完勝した林田は、将来を嘱望されながらもプロに進まなかった。「消えた天才」としてテレビ番組で紹介されたこともある。
「正直、恥ずかしくて……。もっと言うと、尚弥に迷惑かけちゃうんじゃないかと思ったりもするんです。だから聞かれたら『1勝2敗ですよ、最後に勝ったのは向こうですよ』と言うようにしています」
だが、破った相手は4学年下の井上だけではない。1学年上の井岡一翔、2学年下の寺地拳四朗と、世代が異なる3人の世界チャンピオンから勝利を収めている。
「長くアマチュアのトップで居続けられたからですかね。そこは嬉しいですよ。しかも全部全国大会の決勝戦。大きな舞台で勝ち上がってきた強い相手に勝てたのは、少し誇りでもあるんです」
気恥ずかしさとプライドが入り交じった笑顔を見せた。「井上尚弥に勝った最後の日本人ボクサー」は、名だたる王者たちと交差したボクシング人生を歩んできた。
林田は1989年9月9日、千葉県浦安市に生まれた。現在の身長は163センチ。幼少期から小柄で、クラスでの並びは前から1番目か2番目。中学では野球部に所属し、体育の授業で柔道をやれば、同じ体重の同級生には負けない。不良ではないが、腕力には自信があった。相手が大人であろうと間違ったことははっきりと言う芯のある少年だった。
「根は小心者で真面目。でも、体が小さかったので、『舐められたくない』という思いが他人よりも強かったのかもしれません。漠然と筋トレしたり、体を鍛えるのは好きでしたね」
中学2年の夏、父に言った。
「強くなりたいんだけどさ」
土木建築業を営む父は、以前空手に励んでいた。そんな父がボクサーとスパーリングをした際、手も足も出なかったというエピソードを聞かされ、ボクシングジムに通うことを決意した。
選んだジムはキクチボクシングジム。漫画『あしたのジョー』に登場する丹下段平に似た風貌の菊地万蔵が会長を務めるジムだ。入門する日、父が入会金と数カ月分の月謝、計5万円を払っている。自営業で決して裕福とはいえない経済状況を、中学生の林田はよく理解していた。
「えっ、こんな大金、大丈夫かな……。これで絶対に辞められなくなったな」
ジムでの練習は地味で退屈だった。還暦を過ぎた菊地は口癖のように「大事なのは前の手だよ」と言ってくる。基本を徹底し、構えてからの左しか打たせてもらえない。菊地が「ジャブ10」と言えば、左を10発。「左ストレート5」と指示が飛べば、ジャブより強く左を5発叩き込む。打ってはすぐにバックステップを繰り返した。
実戦練習はなく、単純作業の反復。辞めようと思うと、父が大金を払った“あの光景”が頭に浮かんでくる。林田に感化されてボクシングを始めた同級生は、しばらくするとジムに来なくなった。それでも林田はひたすら左を打ち続けた。
中学3年になり、菊地から「夏休みは習志野高へ練習に行けよ」と声をかけられた。ボクシングの名門校だ。そこに来ていたのが、のちにアマチュア5冠となる三須寛幸だった。2人はウォーミングアップで校庭10周を走る先輩たちのペースについていけない。「無理だよ」「辞める?」。顔を見合わせながら走る。そんな状況が10日ほど過ぎた頃だった。
「おい、お前たちも中3? 俺、初めてだからよろしくね」
林田いわく「見るからにヤンキーなヤツ」だった。こんなヤツが走れるわけない。林田はそんなふうに考えていた。だが、ヤンキーは颯爽と走り、続くスパーリングでも物怖じせず、喧嘩のようにやり合っている。
「どれくらいボクシングをやっているの?」
林田が尋ねると、ヤンキーは言った。
「俺、まだやり始めて3カ月ぐらいだよ」
その男は岩佐亮佑と名乗った。のちの世界チャンピオンだ。林田、三須、岩佐の3人は、スポーツ推薦で習志野高に入学することになった。
キクチジムとは打って変わって、習志野高は実戦練習ばかりだった。リングをロープで四つに区切り、軽く手合わせする「マス・ボクシング」を重視する。リング下の後輩が「お願いします!」と次々に手を挙げ、先輩が指名する。まるで相撲の稽古場のようだった。
林田はそこで気づく。しっかりとした構えからの左ジャブ。知らぬ間に菊地の指導が土台になっていたことを。基礎が出来ているため、厳しい練習にもなんとかついていける。
「岩佐はテクニックがあるし三須は速い。あの2人の存在がなかったら、今の自分はない。『三羽がらす』と言われましたが、2人と僕の間にはレベルの差がありましたね」
将来のプロボクシング入りを公言する岩佐。だが、林田にはプロの道やアマで五輪を目指す考えは一切なかった。
「父が自営業でバブル崩壊の後、苦労した時代背景もあって、母が口癖のように『公務員はいいわね』と言っていた。自分も『そこそこ、堅実がいいんだ』と思って、何事においても欲がなかった。そういう育った環境が大きかったかもしれませんね」
高1の夏、地元の千葉・鴨川でインターハイが開催され、林田ら習志野高の1年生はタイムキーパーやゴングを鳴らすなど試合運営の手伝いをすることになった。そのとき、目を奪われた1人のボクサーがいた。大阪・興国高の井岡一翔だった。
「うわぁ、すげえな、これが井岡か……。絶対に手の届かない存在だな」
1学年上の井岡は春の選抜選手権で優勝し、既に注目を集めていた。攻撃的でボディやショートのパンチが巧い。リングで光り輝く井岡が眩しかった。試合運営の手伝いをしながら、井岡を見ては学んだ。
林田のスタイルはパンチを放つと、すぐにバックステップを踏み、防御態勢をとる、菊地仕込みの基本に沿ったものだった。だが、次第に「バックステップ」に疑問が生じてきた。
「打った後に下がる必要はないのでは? と思い始めて、打ってさらに前に出たんです。近くで打った方がより効率的じゃないか、と」
中間距離での闘いを目指す選手が多い中、林田は接近戦でショートの打ち方を徹底的に磨き、ファイタースタイルができあがった。岩佐はテクニックとパワーがあり、派手な試合が多い。三須はスピードに長けている。3人はそれぞれ特徴があり、互いをライバル視していた。なかでも勝ち気だった三須と岩佐は衝突することが多かった。
「ちょっと待て、2人とも落ち着けよ!」
そう言って、間に入って仲裁するのが林田の役割だった。主将の三須の愚痴を聞き、岩佐をなだめて自宅まで送っていく。欠かすことのできない潤滑油のような存在だった。
一方で、3人が同じ方向を向くと、チームはまとまり、爆発的な力を発揮する。3年時のインターハイでは、習志野高に44年ぶりとなる全国団体総合優勝をもたらした。
林田の高校生活の最後は選抜とインターハイで準優勝、国体では優勝を飾った。
「周りを見たら岩佐が3冠で、三須はインターハイ王者なので、なんとも思わなかったですね。天狗にならずに済んだのはあの2人のおかげ。本当の仲間です」
大学は関東リーグで1部に上がったばかりの駒澤大に進学した。校舎は渋谷から近く、少し遊んで青春を謳歌したい――そんな淡い思いもあった。
だが、大学でのデビュー戦となるリーグ戦の1試合目。対戦相手は憧れの東農大・井岡だった。
<《井上尚弥に勝った日》編に続く>
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