「尚弥、頼むからジムに来ないでくれ…」井上尚弥に感じた“本当の恐ろしさ”…スパーリングで戦った八重樫東が証言「次の動きが読まれていく」《井上尚弥BEST》

34年ぶりの東京ドームボクシング興行で、挑戦者ルイス・ネリを6回TKOで下した井上尚弥。これまでNumberWebで公開された井上尚弥の記事の中で、特に人気の高かった記事を再公開します。今回は、「“井上のトレーナー”八重樫東の証言」です。《初公開:2023年12月24日/肩書などはすべて当時》

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<「怪物」井上尚弥とスパーリングで、数え切れないほど拳を交わしてきた八重樫東。同じジム所属、同じ時期の世界チャンピオン、そして現在はトレーナーとして。八重樫が痛感した「なぜ井上尚弥は最強なのか」。>

 2020年、夏。八重樫東は現役生活を締めくくるスパーリングの相手に、ジムの後輩・井上尚弥を指名した。

「えっ、俺でいいんですか?」

「うん、お願いします」

井上尚弥と「最後のスパーリング」

 大橋ジムのリング上は二人だけの世界。これが現役最後の闘いだ。八重樫は井上が中学3年のとき、初めて拳を交わした。その次は高校2年になったとき。八重樫はもう日本王者になっていた。高校3年時にも向かい合った。その後、井上がプロになり、スーパーフライ級に上げるまで、何度も何度もスパーリングを重ねてきた。現役最後は井上尚弥と決めていた。

「尚弥がいなかったら、3階級制覇もできなかったと思うし、今の自分はないかなという気がしますね。僕のことを強くしてくれた人なんで、感謝しています」

 八重樫はそう言って、はにかんだ。

 10歳年下の「怪物」と出会い、幾度も拳を交わし、いつしか追い抜かれ、それでもなんとか食らいついていった。

 疲れ切っているとき「尚弥、もう頼むからきょうはジムに来ないでくれ」と何度思ったことか。だが、井上がジムに姿を現わすと、心とは裏腹に「おう、スパーやろうか」と八重樫の口は動いていた。

 だが、今思う。あの日々がなければ、井上がいなければ、ここまでこられたのだろうか、と。

「どうしても尚弥と一緒にいると、比べられるじゃないですか。同じジムで、同じ時期の世界チャンピオンなんで。『俺は尚弥になれない』と思ったんです。よくゴレンジャーに例えるんですけど、アカレンジャーは尚弥。じゃあ俺はミドレンジャーでいいやと思って。それでもゴレンジャーの一員ですから。どんな色でもいいから自分の色を出せる選手になろうと思ったんです」

これほどファンに愛されたボクサーがいたか?

 最後のスパーリングを終えると、互いに「ありがとうございました」と頭を下げた。八重樫の現役生活は終わりを告げた。最後まで強者に向かっていき、長くて濃いボクシング人生だった。もう悔いはなかった。

「誇れることは、世界王者になったことではなく、何度負けても立ち上がってきたこと、って大橋会長が言っていたけど、本当にそう思います。本心は怖いけど、強い者に挑んでいく。僕は負けも多いけど、誰よりも観ている人の近くにいるような存在。そういうチャンピオンでいられたのかな」

 これほどファンに愛されたボクサーも珍しい。「オール・オア・ナッシング」のボクシングの世界で、負けても輝く、稀有なチャンピオンだった。

井上尚弥からトレーナー打診「一度首を振った理由」

 2021年秋のことだった。引退後、大橋ジムでトレーナーを務めていた八重樫は、井上から声をかけられた。

「僕のフィジカルトレーニングを見てもらえませんか」

 八重樫は首を振った。当時の井上はバンタム級のWBSS(ワールド・ボクシング・スーパーシリーズ)で優勝を飾り、米ラスベガスに進出。21戦全勝18KO。PFP(パウンド・フォー・パウンド)の上位に名を連ねるようになっていた。

「だって、尚弥は超一級品。フィジカルを見て、万が一、壊したらよくないし。もっといいトレーナーいるよ」

 だが、井上はなおも食い下がってきた。スーパーバンタム級への転級を視野に入れ始めた時期だった。

「ボクシングが一番大事なんで、やっぱりボクシングを知っている人じゃないと嫌です」

 井上も折れない。八重樫は意を決して受諾した。井上への恩返しになるだろう。トレーナーとしても、きっと得ることが多いはずだ。だが、それらのことより、決断する際、心に誓ったことがある。

「強い井上尚弥が、強い井上尚弥のままで終われるように。やっぱりボクサーはみんな負けて終わる。強い井上尚弥のまま現役を終えられるように。それが僕の裏テーマ。だから『やります』と言いました」

「尚弥はメイウェザーみたいに終われる」

 リカルド・ロペス、フロイド・メイウェザーは無敗のままボクシング人生を終えた。「最強」と言われるチャンピオンの中でも、さらに選ばれしボクサーしか無敗で現役を終えることはできない。井上はここから「年齢の壁」「階級の壁」に直面するかもしれない。

「尚弥はたぶんロペスとか、メイウェザーみたいに終われる可能性のある選手だと思うんです。それにはちゃんと理解してあげられるブレーンがいること。年を重ねると、感覚・反応が落ちてくるので、加齢に抗うトレーニングや、スポーツ科学を取り入れて、ボクシングに生かしていこうと思っています」

 フィジカルトレーニングといっても、ボクシングに生かせるものだけをやっている。八重樫は必ず「ボクシングのこの動き、ここを使うんだよ。だからこれをやるんだよ」と前置きの説明をするという。

井上尚弥はなぜ最強なのか?

 誰よりも間近で井上尚弥を見てきた。数え切れないほど、拳を交わしてきた。その八重樫から見て、井上の凄さ、最も優れている点はどこなのだろうか。

「パンチ力とかスピード、テクニック、体の使い方、目の良さ、ディフェンスだったり、全部すごいじゃないですか。でも近くにいて分かることは、彼の本当の強みは頭の中。イメージ力というか、想像力だと思うんです。それがものすごく高いレベルなんですよね」

 あるトークショーでの忘れられないやりとりがある。もうずいぶん前のことだ。井上と二人でゲスト参加し、司会者から「ボクシングの練習や試合で何が大切ですか?」と問われた。八重樫は「フィジカルですかね」と伝え、幼い顔の井上は「僕はイメージ力ですね」と答えた。

「まだ尚弥が子供だったんで、ちょっと拙い話で、なんか適当に言ったのかなと思っちゃったんですよ。でも練習を見ると、本当にそれを一番大事にしているなと思ったんです」

 井上は模倣が上手い。よくノニト・ドネアのものまねをしていたという。相手の特徴をつかむ洞察力。それを忠実に再現する体の動きにも驚いた。

 シャドーボクシングでは、井上が相手の動きをイメージし、それに自身の動きを合わせていく。一連の動作で「これが当たりそうだな」というパンチを何度も繰り返す。その動きをそのまま試合で使い、相手にきちんとヒットさせるという。

「それって、相手のイメージがめちゃくちゃリアルじゃないと試合ではできないんです。例えば、この前対戦した(スティーブン・)フルトンがこう来るから、こうやって詰めていって、こうやって打ち返す、と毎試合毎試合、相手と自分のイメージを作っているんです。それを試合で寸分の狂いもなくやってしまう。小さい頃からやっているんでしょうけど、そのイメージする力が本当に凄いんです」

対戦相手を過大評価する“強さ”

 井上は対戦相手のビデオをじっくり見るタイプではない。ある程度見て、相手の動きを覚える。そこから、井上の頭の中で相手を徐々に強くしていくのだ。

「尚弥は対戦相手を過大評価しますよね。それって、自分のイメージの中でめちゃくちゃ強くしているんですよ。こうやったら、こう来るんじゃないかと。実際、相手はそんなパンチを打てないかもしれない。でも尚弥は、ああやってこうやって、これを避けられたら今度はこうして、と頭の中で強い相手と闘っている。だからこそ、試合で本物の対戦相手と向き合ったとき、『ああ、こんなもんか』って思えるんです」

 八重樫はスパーリングでも井上のイメージ力を痛感した。次の動きを予測されるのだ。

「どんどん読まれていくんですよ。やればやるほど。常に5ラウンドはやるので、しんどかったですね。だから、どうやって尚弥の裏をかくか、というのを考えていましたね」

 そう言って懐かしんだ。

 八重樫は井岡戦、ロマゴン戦の際には練習段階から集中力が増し、コンディションもすこぶる良かった。井上のフルトン戦前もそうだったという。練習のときから集中力が違う。相手が強ければ強いほど、心身ともに研ぎ澄まされていく。

「変な話、こんなに対戦相手によって違うんだな、と思うくらい。(ポール・)バトラーの試合前とはスパーリングの出来もまったく違った。尚弥もそういうタイプ。でも彼の場合は、強い相手と闘ってしっかり勝ちますからね」

 25戦全勝22KO。30歳。大舞台になればなるほど、力を発揮していくだろう。

「尚弥は元々めちゃくちゃ引き出しを持っているんですけど、まだ増やしていくことはできる。まあ、自分でどんどん勝手に新しいものを作り出していくと思いますよ」

 鍛錬を積む井上の隣には八重樫がいる。これからもずっと「強い井上尚弥」であり続けるために。

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